『ヴィンランド・サガ』と『火の鳥 黎明編』からの情景

画像左『ヴィンランド・サガ』第一巻のレイフじいさんの回想シーン、画像右『火の鳥黎明編』のラストシーンです。これは冒頭の昔話に過ぎないんですが、多くの『ヴィンランド・サガ』の読者が、そう予想しているように、このシーンは終盤で再現があると思われます。
人の世に絶えぬ戦乱の果てに、その全てを呑込んでそこに在る大地に祈るようなその瞬間のシーンというのが、もう一度『ヴィンランド・サガ』に出現するんじゃないかと…そう思いながらこの物語を読んでいます。…いや、分かんないですけど(汗)

今、僕は幸村誠先生の『ヴィンランド・サガ』をすごく注目して読んでいる。ちょっとそのきっかけとなった6巻を読んだ時の自分の感想を引用しておきます。とにかく僕はクヌート王子の覚醒にしびれてしまった。

この巻でクヌート王子が『王』として覚醒します。ちょっとそのシーン正直シビれました。それまでこの作品、言ってしまえばアシェラッド(まあ後トルケル)の“視界”が世界を見渡す総てだったんですね。…いや、最初っからトールズっていう男の“視界”が提示されてはいたんですが、すぐ死ぬし…(汗)結局、彼が「何を観た」かは今だに謎のままであって「単なる良い父親」にも見えるわけです。
だから、アシェラッドが望んで得る事のできないものとしてトールズは在るけれども、ここまではそれ以上ではなかった。そこを…すっと風が吹き抜けるように、アシェラッドの視界を超えてしまった…。どう言えばいいんでしょうね……この物語、この時点で既に『忍者武芸帳』か『火の鳥黎明編』に比肩し得るポテンシャルを持っています。とりあえず、このクヌート『王』がどのような道を歩んで行くのか見届けて行きたいと思います。

…で、ふと、この『ヴィンランド・サガ』と『火の鳥黎明編』は非常に符合するものが多い物語である事に気がついたんですね。それをちょっと羅列して書き出して観て『火の鳥』を反射して観る事で『ヴィンランド・サガ』の物語を眺める一視点を確保してみたいと思います。
幸村先生が『火の鳥』を意識しているかどうかは分かりませんが、この符合は多分、描こうとしている物語のテーマが「人間を描く」という事において非常に近しいものだからだと思います。そしてオマージュとかそういう話ではなく『火の鳥』にあって『ヴィンランド』にないもの、『ヴィンランド』にあって『火の鳥』にないものを観て行く事で、両作品の景観もまた違ったものになってくると思います。

アシェラッドと猿田彦

トルフィン「よくも!!よくも父上を殺したなァァアアッ!!お前も殺してやる!!絶対に殺してやる!!ブッ殺してやるぞ!!」

ナギ「人殺しめ、よくも村じゅうの人を殺したな…おれのねえさんまで……ええい、このくそゴリラッおまえの目をえぐり出してやりたいっ」

『ヴィンランド』の主人公・トルフィンと、『火の鳥』の主人公…かどうかは分かりませんが(汗)中心的人物として扱われている少年・ナギは、非常に似た生い立ちを持ちます。トルフィンは父親の仇・アシェラッドに育てられ(…育てたってワケでもないかもしれないけど)トルフィンも復讐心を持ってアシェラッドに付き従っています。同じくナギも一族を皆殺しにされた仇・猿田彦に育てられ、ナギも復讐心を持って猿田彦に付き従っています。(両者に姉がいるところも似ている)
そしてアシェラッドも、猿田彦も、何の酔狂か「いつでも殺しに来い!」と宣言し、彼らが復讐を実行してもそれを跳ね返して、しかし命は奪わず、側に起き続けるんですね。

アシェラッドと猿田彦は全く違うキャラなので、その後の展開も同じになるとは考えづらいのですが…しかし、このシチュエーションは非常に似ている…。おそらく、肉親の仇に育てられる子供、という構図は人間の愛憎を描く事が凝縮されたドラマツルギーとなっているのだと思います。

トルケルと弓彦

ラグナル「…イカれた連中だ。こうまで戦バカだとはな…貴様ら全員死ぬぞ。たった500でデンマーク群1万6千を敵に回すとなんとする」

トルケル「そーゆーことはね、問題じゃないんだよ、ラグナル」

弓彦「(逃してくれたら不老不死の生き血をあげるという火の鳥に対し)いらねえ、おれはそんなもの、ほしかねえ。ただ、おめえを射落としたかっただけだ……射落せば、それでおれは満足なのさ」

火の鳥』の天の弓彦は、僕は本当の本当に好きなキャラで手塚先生の作品の中では五指に入るほど好きなキャラなんだけど、残念だけど、そこらへんを語るのは置いておいて…(笑)
『ヴィンランド』も『火の鳥』もアシェラッドや、猿田彦とは別タイプの戦士が現われます。そして彼らは武力自体はアシェラッドや猿田彦を大きく凌駕する。それがヨーム戦士団を抜けて“本物の戦士”を求めて戦いに流離う巨人トルケルと、ヨマ国を離れて“強い獲物”を求めて流離う狩部・天の弓彦です。強さ順位をつけるマンガじゃないのでハッキリしないのですが、おそらくは作中で最強の戦士です。(トルケルの上を行くキャラが今後出てくる可能性はありますが…)

トルケルは軍団を率いていて、弓彦は一匹狼という違いがありますが、共に“強い敵”を求め、そのためには“誰の味方になるか?”には拘らない生き方をしています。それは人間として異端の生き方を描いているという事なんでしょう。
トルケルが軍団を率いているのは、そもそもヴァイキングという存在が文明化して行く人間社会において異端であり、その狂いはやがて消えゆくものとして描かれているからだと思います。

また『ヴィンランド』で、トルケルがアシェラッドを捕まえ、絶体絶命のピンチにトルフィンが割って入って、結果的にアシェラッドを救ったように、『火の鳥』でも弓彦と猿田彦が勝負をする瞬間にナギが弓を放ち、結果的に猿田彦を救うシーンが、重なって見えるのが興味深いです。…どちらも、トルフィンやナギが割って入らなければ、生命は無かったはずなんですよね…。
そして、弓彦が火の鳥の“永遠の命”を「いらねえ」と言い放ったように、トルケルもまた“永遠の命”が手に入るとしても、それを欲する事はあり得ないでしょう。ここもまた、この二人の戦士の似ている点と言えるかと思います。

クヌートとニニギ

クヌート「父よ、もはや、あなたの救いは求めぬ。あなたが与えてくれぬなら、我々の手で、この地上に再び楽園を……!!」

ニニギ「おれが血も涙もない鬼と思っているだろうな。たしかにそのとおりかもしれん。倭人どもにあわれみなどかけては、おれの大計画は実現しないからな。ここはいい土地だ…ふるさとの大陸など問題じゃない。ここにおれの城とおれの国を築くのだ…」

火の鳥』のニニギは、僕は本当の本当に好きなキャラで手塚先生の作品の中では五指に入るほど好きなキャラなんだけど(やや、デジャブー…?)…クヌートが6巻でただ者では無くなるのは、読めば分かると思うんですが『火の鳥 黎明編』のニニギのただものじゃなさは、あまり知られていない気もしますので、少し補足したいと思います。
そもそも『火の鳥 黎明編』の中でニニギが登場するコマはほんのわずかで、その中のほとんどでニニギは「服従か?死か?」を迫る、冷酷な征服者として描かれています。でも、画像で張ったみたいに、この人は猿田彦に「おれを血も涙もない鬼と思っているのだろうな。たしかにそのとおりかもしれん。倭人どもにあわれみなどかけては、おれの大計画は実現しないからな」と言いにくるんですね。それは血も涙もない鬼の行動としては似つかわしくない(笑)

そしてニニギの言う大計画とは何か?単にひたすら侵略と蹂躙を繰り返すだけなのか?そうではない。多分、大陸からきたニニギはそうではないんだと思う。ニニギが何を考えていたかは、多くが語られないが、実はおそらくはニニギの野望を代弁し続けているキャラがいます。ヤマタイ国のスサノオがそうだ。ニニギの登場と入れ違いで、スサノオヤマタイ国から追放され二度と物語に姿を見せなくなる。むしろニニギはスサノオの意志を継ぐために現われたようなキャラに思えます。

スサノオが何を目論んでいたか?それは女王であるヒミコとの会話の中で散々語られる。「ヤマタイ国を近代化させましょう」と。「まじないで国を治めるやり方を止めよう」と。そして「魏やそのほかの国々とも立派につきあえる国に…」と。

おそらくニニギが見ているものもこれだと思うんです。むしろ大陸出身であるニニギが魏(大陸の王朝)を強く意識していたであろう事は想像に難くない。…あ、というか今、気がついたけど、ヤマトの地はニニギにとってのヴィンランド(ここではないどこか)なんだなあ…。だから、その地でニニギは王者として強い国家を築こうとしていた。そういう事なんだと思う。

そして何より火の鳥に接した時のニニギの言葉が好きなんですね。火の鳥を仕留めますか?と伺う部下に対して「ほうっておけ、おれは火の鳥なんかに興味はない。永遠の命?ふん、そんなものが何の役に立つ?火の鳥よ、お前を祝福してやるぞ、おまえが不老不死なら、この征服者ニニギの事を子々孫々まで伝えるがいい!」と火の鳥を見送って行くんですね。…非常にシビれるシーンです。
それは、先に述べた弓彦の「要らねえ」とは意味の違うもので、彼は本当に単に要らないだけなんでしょうけど(笑)ニニギはもっと己の生命を見つめた上での「おれの生命の在り方にとって役に立たない」なんですね。(実は欲しいけどやせ我慢をしているというニュアンスを含めるのもアリ)…だって!普通なら野望を持つ王者には“永遠の命”は絶対に役に立つものなんですもの!
だが断る(笑)…そして、それなのに、この人、美女ウズメが去ってしまう事はめっちゃ悔しそうに見送るんですよね!!w不老不死は要らんけど美女は要る!そこにシビれる、あこが(ry や、すみません。すっかりニニギの話が長くなってしまいました(汗)

クヌート王子が歴史にあるデンマーク王クヌーズ一世で、ニニギの高天原一族が歴史にある大和朝廷の始祖であるなら、両者は歴史に大きく刻まれる成果を残して行く事になります。
今、僕はニニギの心象に潜ろうとしましたが、実際のところニニギはそんなに分かりやすいキャラではありません。恐らくスサノオを同じ事を考えている人間だと僕が勝手に想像しているだけです。同じようにクヌートも“愛”(この愛って非常に難しいので解説は避けますが)を識り、全てを愛そうとするが故に、その振る舞いは誰も愛していないかのように見える人間になって行くと思います。その心象は、およそ常人に測れるものではない。そういう孤独なる王者の物語が描かれようとしているのだと思います。

そして彼らが打倒して行く“旧時代”の国を取り仕切るものが、老人、老女であるという構図…まあ、これ自体はよくある定型なんですが符合の一項目として付けておきます。

トールズと火の鳥

トールズ「オレは……わかったんだ。本物の戦士とは何かが」

火の鳥「(火の鳥だけ死なないのは不公平だと言うナギに対し)不公平ですって?あなたがたは何が望みなの?死なない力?それとも生きて幸福が欲しいの?」

最後に対比の話ではないですが…『火の鳥』に在って『ヴィンランド』に無いものは、当然ながら“火の鳥”なんですけど、『ヴィンランド』に在って『火の鳥』に無いものは、トルフィンの父、トールズ……とクヌートと言えると思います。先ほど、僕はクヌートとニニギを対比して扱ったのですが、それは彼らの持つ歴史的な業績をあげて物語の構造対比をしているわけで『ヴィンランド』という物語が持つ大きなテーマという意味では、トールズが亡き後のクヌートの存在は大きく、そこは単純にニニギとの対比は測れない領域であると思います。
これが何を意味するかは『ヴィンランド』という物語がまだ続いて行くものでもありますし、僕も興味を持って見守りたいと思います。
…少しだけ触れておくと『火の鳥』自体は生命の象徴たる火の鳥を具現化する事で、宇宙全体の生命の輪廻転生が描かれて行く事を射程に組まれている物語ではあります。(まあ、ちょっと手塚先生、『火の鳥』もいろいろ描きなおしてるっぽいので、そこらへんは調べる必要がありますが…)それに対して『ヴィンランド』は、やはり“死んだら終わり”の世界に見えます。死ねば無に帰す、その世界で如何に生きるべきなのか?を問いかけているように思えるんですね。
まあ、画像で張った火の鳥とナギの問答のシーンは、クヌートが覚醒をした情景の話と非常に近いものを感じますので、同じような事を言うかもしれませんし、言わないかもしれませんw

まあ、要するに『火の鳥 黎明編』を読んで『ヴィンランド・サガ』を読んでない人は『ヴィンランド・サガ』読んでみてね!『ヴィンランド・サガ』を読んで『火の鳥黎明編』を読んでない人は『火の鳥黎明編』読んでみてね!両方読んでない人は、両方読んどげ!!ごらぁああ!!(`・ω・´)…って事です。以上。

2008/08/14
整形/修正 2012/02/15

ネギま:フェイトの目的と火星大戦(仮)の考察

ネギま:フェイトの目的と火星大戦(仮)の考察

投稿者:GiGi <2007/12/16 11:09>
先日のオフ会での話題。きっかけは前日のLDさんとの会話。ネギまの魔法世界の作り込みって本当によく出来ているなーという話の流れで、ふと「フェイトの目的って、ゲートを破壊する事で、人類と魔法使いの衝突を物理的に回避しようとしてるんじゃね?」という話が出た。

5億を超える人口を有し、旧世界に頼らない完全な自給自足と、魔法をインフラとした社会制度と安定した政治形態をもった魔法世界。ぶっちゃけた話、旧世界との断絶が起きたとして、当の住民たちにとってはほとんど社会的影響がないんですよね。

超は人間と魔法使いを親和することで争いを回避(あるいは緩和)しようとしていたのだけれども、フェイトとその黒幕は、もっと直接的に闘争の芽を摘んでしまおうとしてるんじゃないかなって。

その話題をペトロニウスさんに振ったところ。「面白い、けどそもそも魔法世界と旧世界が衝突する理由がないような」と。あー鋭いなーと思うわけですけれどw続いて、「それこそ、魔法世界が壊滅して旧世界に大量に押しかけてきたりしたら別だけど」という。

やーこれは凄いな、と。いろいろ考えてみたけど、超鈴音のいる世界で、人類と魔法使いが修復不能なレベルの対立をしているとしたらもうそれしかないんじゃないかという気がしてます。となると火星は魔法世界の代替用地?とかも思ったわけですけれども。何か調べたら、魔法世界とテラフォーミングされた火星の地形がそっくりという指摘がでてるみたいですねー。
http://d.hatena.ne.jp/adagium/20071108/p3

んーそうなると今の火星が偽装された魔法世界そのもの、なのかな?とすると人類の通常兵器が届いてしまうなー。むしろそれが戦争のきっかけ?まーちょっとまだ頭が回ってないです。とりあえずこんな話が出た、ということで。叩き台にして何か面白い考察が出来たらなーと思っています。

Mixiに書いたものの転載です

火星大戦(仮)の謎

投稿者:LD <2007/12/16 20:23>
ありがとうございます。
そして以下mixiのレスですw

…で、考えてみるとゲート自体は1〜3年くらい?(時間未確認)で修復されるって話だったから100年後の「火星大戦」への直接の繋がりを持たせるのは難しいかもしれない…と思っています。
ただ、この読みをそのまま続けて行くなら「火星大戦」はともかくとしても「エクソダス」はゲート破壊の修復前に起こったりすのかも。そうすると超の強制認識魔法は、かなりギリギリのタイミングで行われており、そしてまず魔法世界の民を「異世界からの侵略者」ではなく「同族の避難民」と思わせるところからスタートする予定だったと考える事はできるかな?と。

…あそこが火星だと、そこらへん一から組みなおしですね(汗)…というか「火星大戦(仮)」自体「ネギま」では提示されてない妄想のはずなんですけどね(汗)

2007/12/16
整形 2011/12/10

超鈴音の野望

※ 「魔法先生ネギま!」162時間目 幸福な未来に再見!!の回で、超編完結とありますが、超編は非常に構成力が高く尚且つ様々なサスペンスが織り交ざったよいシリーズでした。また週刊連載で読む読み応えも充分で、ライブで楽しめて本当よかったと思います。そんな超編にほだされる中、持ち逃げされてしまった超の野望の謎に迫るチャットと付随コメントを掲載しておきます。

GiGi >> いやー改めて冷静になって(162時間目を)読み返しましたが。すっごいですねこの情報量は。赤松スキル全開ですw。何の前置きがなくても普通にパワフルですわ。前置きされたら理性が吹っ飛ぶわけだw。
GiGi >> いやしかし、家系図偽書である可能性もきっちりフォロー入れて、それもそれに気付くのが、当然思い至るべきゆえっちとかでなくて、わりとどうでも良いポジションの朝倉ってところもおいしいですねw。
いずみの >> よく思うのは、この漫画をして「少年漫画の王道」と呼ぶ人は何を指して王道と言ってるんだろう? と(笑)
GiGi >> それは「少年漫画の王道」というフレームでネギまを読んでいるということでしょうw。そしてそれでも十分に面白さをピックアップできるのがこの作品の懐の深さですw。
GiGi >> この大長編に対するフォローとしてパルにさらっとメタな視点のセリフ言わせてるしw。
いずみの >> 割と作者から、少年漫画の枠で話を描いている様子が感じられないんですよね。確かに懐が「広い」です。
GiGi >> この朝倉、ゆえ、ちうという並び良いですね。同じレベルで事態を理解している3人の受け止め方の違いが如実に出てて。ゆえはちゃんと思いとどまれるけど、本屋ちゃんは好奇心に勝てないとか、まあ、読みどころいろいろありますわw。
LD >> いや、超がこの時代に来て、尚且つあの状況で「私の望みは既に達せられた」状態ってのは何だろうと考えてみるんだけど、なかなか妥当な答えがみつかりません。
いずみの >> ぼくもわかりません
いずみの >> それこそさっき言ったライブ話に繋がりますが、最初から考えてたか、負けてから思いついてたかすら不明ですね>既に達せられた
LD >> もし、今まで出されたデータだけで超の“望み”が推理できるなら、少なくとも「それを明らかにするために戻ってくる」可能性は消えるな?とちょっと一所懸命なんですが…。(←こればっか)
GiGi >> 「我が計画は消えた…だが私はまだ生きている」がポイントだと思っています。まだ具体的に図面は引けてませんが、ここから展開できるはず、という直感ですね。
いずみの >> 最初は死ぬ気だったわけですから、「生きているから達成された」イコール、負けてから思いついた、でいいんですかね?
GiGi >> そうですね。負けた後で気付いた事実がある、ということなのかもしれません。ありふれた不幸に対して、超がどうゆう対処をしたいのかが不透明ですので、断定は結局出来ませんが。
LD >> ほう。>生きているから達成された。 そうすると「ふ…御先祖様を殺すわけにはいかないからな」って言葉も大分深くなりますね。……いや、というかそこまでは考えたんだけど、なんちゅーかこそらへんの未来改変でネギの時代じゃないといけないポイントとか難しくって。
GiGi >> やーほんと熱が醒めないうちに人気投票やって欲しいなぁw。定期的なものでしたっけ?次はいつなんだろ?
LD >> 相当深い謎だとして存置させてしまうと「ネギま・アポカリプス編」が来てしまうw
いずみの >> (あ、手に持ってるカシオペアで連続移動すれば飛行船まで戻れたのでは……)
LD >> カシオペアの動作には魔法力がいりましたっけ?
いずみの >> 最終日は世界樹の魔力のみで動いたはずですよ。一回で10mジャンプできます
LD >> じゃ、まあ持ってなかったんかな?ハカセの緊急避難用とか。
GiGi >> 戦いそのものをなくす<当初の目的。これが失敗して、戦いに勝利するために帰る<今。という理解をとりあえずはしていますが。
いずみの >> 渋いのは「ネギの言葉を聞いて覚悟ができたから」かな? 個人的にはあんまり納得いかないですが
GiGi >> どちらも共通項は「未来を切り開く」ということなんですね。基本的にはそのラインの理解で間違えてないと思っていますが、まあ、断定できる材料はないですねw。
LD >> 火星大戦?…妥当くさいね。というより、この時代に魔法使いの存在が認識されて、科学VS魔法の最終大戦が行われたとか?
GiGi >> だから超の別れの言葉「また会おう!」が強いですよね。強い。うん。
LD >> やあ、このチャットでそこそこいいとこ着けたような気がするぞw これで少しだけでも超の成仏度が上がってくれれば…w
GiGi >> 成仏度ってw。いや、来週普通に教室にいるかもですよ?w
LD >> いや、超は強い霊なんで、こんなもんで封印しきれるとは思ってませんよ。しかし、少しだけでも確率を上げるというか…自分の好みとしては卒業式の出席する以外は出ないでいてくれる事なんだわ。超のギミックの変わりはチーム・超の人たちが実はほとんど肩代わりできるじゃん?w
GiGi >> 超の変わりはチーム超で肩代わりできる<いい読みだと思います。ハカセやサツキという今までビルドしていないキャラをうまく再構築していて。
LD >> 「また会おう!」もいいね。……深けえええええ!orz
いずみの >> 流石にその予言は反故にできないですよね?>また会おう
GiGi >> ネギま完結後に「ネギま外伝:火星大戦」やるのはあるかもしれませんねwww.


いや〜何か、答えが出てみると「何で分からなかったんだろう?」という感じがしますが、超鈴音の目的は「歴史上の突然にして急激な魔法文明の露見による、不理解と拒絶反応、そして最終衝突の回避」なんでしょうね。…っていうか何で思い至らなかったんだろう?(←また言ってる)「魔法を世界に認識させ、かつその後の混乱を管理して平和裏に事を納める」事を計画している以上「それ」くらいしか考えられないはずです。
いや、勿論、何かややこしい波乱に満ちたストーリー予想もできない事はないですが、現在出ている情報でシンプルに考えるとここかな?と思うわけです。…こんなん、もう他のサイトとかではビシバシ言い当てまくり?つか、世間一般読者には周知?…ま、いっか。

自分の脳みそがアンポンタンだと認めたくないLDは2つ程、言い訳を考えました(汗)

  1. 「超の目的は人類存亡に関わる究極的事態の回避か?」という夕映の質問を龍宮「今もこの世界にあるありふれた悲劇と変わりない」と述べた。
  2. 世界大戦クラスの悲劇の回避については、夕映に「じゃ他の不幸はどうなんだ?」式に散々否定されている。

1については、龍宮なら対象が「世界大戦」であっても「ありふれた悲劇」と断じるでしょうね。しかし、この時はひっかけというか、このセリフでかなり極少な超ローカルの問題に思ってしまい「考えるだけ無駄?(情報不足?)」という気になってしまった。これが大きい。
また2ですが、これは夕映が頭っから否定している事象に超の野望がモロに該当するとは思わなかったという事がありますw…しかし、それより何より少年マンガに読みなれ過ぎていた僕は「私はこんなに不幸なんだ〜〜!!!!!!」という超の激白を想定しており、その“お約束”が揺るがない以上、夕映に言い当てられている不幸が超の目的として考えるのは慮外(逆に複雑に考えるハメ)になってしまったって事なんですよ〜wwアンポンタン!!…しかし超は(とりあえず)何も言わずに去ってしまったと……何でしょうね?この異様なカッコよさww

さて問題の謎のセリフ「我が望みは達せられた」ですが、僕なりに色々考えてみました。ちょっと複雑に考える事もできるのですが、やはりシンプルに、単純化した話をします
。要するに予想として超鈴音はネギと同じ迷いを持っていたのではないか?その答えが“望み”の一つだったのではないか?という事です。これは超の野望が「科学・魔法大戦の回避」だろうと仮定できたとき、焦点が定まった気がします。

ネギくんは夕映の言葉を遮り「自分は超を否定できない」としたのですが、実は夕映の主張を遮る事ができないのは超なんです。あれは第三者というか計画当事者じゃないネギくんだから遮る事ができるわけで「じゃ、二次大戦も回避しろよ?一次大戦も回避しろよ?回避する不幸と回避しない不幸はどこで線を引く?数?」と詰め寄られれば何も返す事はできません。計画当事者が「しかし、それでも何割かのありふれた悲劇を…!」などと言ってしまうのはカッコ悪い事この上ありません。
だから超鈴音のネギを誘うセリフは「悪を行い世界に対し僅かながらの正義を成そう」なんですね。

つまり、超は自分の計画が正しいのか?間違っているのか?それを知るのが「望み」だったのではないかと。

…え?今さらそんな悩みを抱えていたら超の格が落ちる?(汗)まあ、そうかも知れないのですが、これがあのセリフに一番しっくりくる……というか、実はこれまでの予想全部ひっくりかえして「超鈴音の野望は実は、ネギのパワーアップ及び精神的成長だった」という予想もあり、あのセリフの一致度はこっちの方が高いのですが、それだと何かモロに思考がタイムパラドックスから抜け出せなくなっちゃうんですよね〜(滝汗)まあ「ネギ先生に負けたら術式差し替え」という決断も、矜持云々というより「超の迷いの産物」と考えるとしっくり来る様な気がします。
そんなわけでネギくんとの戦いの中、超は何らかの答えを出したと。それはネギくんが超との戦いで出した答えのように「善悪」とか「正しい間違っている」といった判定を超えたものだったのでしょう。あるいは「負けたら悪で、勝ったら正義」というものを超えたものだったのでしょう(言葉に直すとどうしても善悪を語っているように見えちゃいますけどね)…え〜っと?とりあえず2つくらい考えられるかな?

  1. 自分の計画は正しかった…というかやってよいものだったと。計画は潰えたが、また他に自分がやれる事を成すだけだと。
  2. やっぱり歴史…自分の生きていない世界は変えちゃいかんね。押し付けちゃいかんね。ありふれた悲劇を振りまくなら自分の時代でね。

僕は…前者かなあという気がしています。ま、なんとなくですが、自分に肯定的な方が超らしいw(…あ、でも確実に同じ計画で再起を図らないのは後者だなあ?)



それともう一つの謎「何故、来たのがネギくんの時代だったのか?」ですが、これも超の野望を仮定する事で、歴史改変のセオリーが見えてきます。それは「歴史改変の影響がなるべく小さく(つまり近過去で)未来の科学技術が圧倒的な戦力差となる時代」である事。そして魔法が世界に認知された時に起こる混乱の沈静化をまる程度見届ける時間がある事ですね。そうすると100年という時間はけっこう妥当な気もしてくるんですが…。ちょっと考えたんですが、もしかすると「ネギま」の物語進行中に世界樹が倒壊する可能性があるんじゃないかと。…無いかな?う〜ん、何だかんだ言ってもなるべく近い未来な方がいいには違いないんですよね。で、この後時を待たず世界樹が倒れ強制認識魔法を使いようが無くなるとしたら、この時代を選んだ理由がジャストになってくるんですね。……まあ、戯言なんですけどねえ…ふふふ(←戯言と思っていない)…というような予想は、もう他のサイトとかではビシバシ言い当てまくり?つか既に否定されまくり?…ま、いっか。

しかし、掲載した画像の「また会おう!!」ですが、この画いいなあ…。振り上げた左手の掌がいい!不格好故に力強さがある。赤松先生、こんな不格好な手描くんだ…。

2007/01/23
整形/修正 2011/12/20

話を積む。

昔、少年サンデーで『ジャストミート』(作・原秀則)という野球マンガが連載されていて、主人公が二人いるマンガだったんだけど、その片割れ、見立ちたがり屋の野球少年・坂本天馬くんが、甲子園決勝でサヨナラ満塁ホームランを打つシーンが印象に残っています。
…残っていて当然なんだけどね(笑)『ジャストミート』という作品の最初の甲子園編(4〜13巻)はほぼ全て、そのシーンを組み上げるために使われていると言ってもいいのです。

甲子園で知り合った野球を全く知らない女の子・美和子ちゃんの「ホームランってなんですか?」という問いかけに「オレが見せてやる!逆転満塁サヨナラホームランを見せてやる!」と天馬くんは答えてしまった構造だ(笑)
超一流の俊足を生かして甲子園に来るまでの地区大会では大活躍だったにもかかわらず、その時から天馬くんの活躍はピタリと止んでしまう。もう、全打席フルスイング!で空振り!(笑)バントによって出塁してきて、ほとんどバッティングのセンスに乏しい天馬くんは当然打てない。…で、一戦終わる度に、今日も見せれなかったねえ、次の試合こそ見せたいねえ、という会話を美和子ちゃんと交わしたりするのだ。
その間チームは、アクのつよ〜〜〜〜〜い、対戦相手と戦い続けてるんですけどね。天馬くんはとにかく打てないという状態が続きます。

ある程度のところまで来ると「ああ、これはもう絶対、決勝で逆転満塁サヨナラホームランを打つんだなあ」と分かってくる(笑)
でも、そこに至るまでももう一ひねりを加えてくる。先に1コ前の打者がサヨナラホームラン打ってしまったり。そこでその“回”が終わったりするので、かなりヤキモキしたりしました。今だと「まあ、この一打は反則打になるんだろーね」とか流しちゃうんだけど、当時はもう少し初心だったのですよ(笑)

そして最後の打席、豪速球投手の球が乱れた時、天馬くんはわざとバットを当ててファールにしたりする。それを何回も続ける。そのままボールを見送れば押し出しで同点なのに、チームのために当然そうすべきなのに、観客も応援団も天馬くんのしている事が分からない。
次第に皆、苛立ち初めて怒号が飛び交うよいになる。「バカヤロー!なにしてんだ!」「どーせ打てやしねぇくせに!」「さっさと三振しろぉ!」、一人の女の子を残して、甲子園中全てを敵に回してしまう。
でも、本人は気にしていない。約束を守る事にしか興味がない。白球にしか集中していない。グワッキ〜〜〜ン!!というシーンなんですけど。…わりと好きな話です。

掲題の“話を積む”という事で何か書こうとして思い出した話です。まあ、話の積み方といっても、どちらかというと“潜伏型”と言うか、そのシーンに重みを持たせる為に、ある程度無駄にページを費やす事を手法としているので(『ベルセルク』の黄金時代編とかもこのタイプ)例としては良くなかったかも(汗)…ま、いっか。
『ジャストミート』はそんなにすごい名作ってワケじゃなくってね。ジャンルとしては『スラム・ダンク』の出現で、絶滅寸前に追いやられたスチャラカ・スポーツものです。そのシーンもありきたりの“いいシーン”です。でも、そのありきたりがいいのです。そのシーンその一点を盛り上げるためにページを費やしている。無駄に空振りを続けるのも、観客全てを敵に回すのも、全てそのため。

それが“話を積む”と言う事。


2002/02/27
整形 2011/11/28

モズグス様フォーエヴァー

  1. モズグス様フォーエヴァー 序文
  2. モズグス様フォーエヴァー モズグス様言行録
  3. モズグス様フォーエヴァー ルカとジェローム
  4. モズグス様フォーエヴァー ニーナの冒険
  5. モズグス様フォーエヴァー そして、作品論へ

モズグス様フォーエヴァー そして、ベルセルク論

まず『ベルセルク」の面白さというか、ウリの部分で確認を取っておきましょう。細かいディティールまで練りこまれた世界観?主人公のガッツが時折見せる優しさ?…いや、それは違う。そうではないでしょう(笑)
やっぱり『ベルセルク』の題名通り、「すげえぞ!さずが超越者!ほんとに死なねえぜ!!」…なのでしょう(笑)

娘を人質にとって敵を仕留め、ナイフが刃折れる程切り刻む、どっちが悪役かわからない程の狂気。もう少し当たり障りのいい言い方をすると、攻撃性が有余らないと立っていられない程の敵と“死にもの狂い”さ。その後、“最初の気持ち”と言われてしまう『ベルセルク』の最初の気持ちはそこではないかと思っています。ここに合意が無いと話が先へ進み辛かったりします(笑)

昔から一般社会からはみ出る事を物ともせず強く生きている人間。“アウトローヒーロー”という者がドラマの世界で1ジャンルとして確立されてきたと思います。『ベルセルク』は復讐の鬼という“アウトローヒーロー”の究極形…というよりその“アウトローヒーロー”のさらにはみ出し系ですね(笑)
人間が、ちょっと強いくらいの人間でも、どうしようもない敵と戦おうとしたら狂う寸前くらいの精神力じゃないと戦えない。ガッツにちょっとおセンチな部分があるのも、不幸な生い立ちがあるのも、パックがお調子を取るのも、その“狂”の怖さを和らげる、あるいは際立たせるための方便でしかなく、グリフィスやキャスカはガッツから狂気を導くためのスイッチでしかない。
だから、ほら、物語がグリフィスとガッツの関係を軸としながら、グリフィスがガッツに入れあげ執着する様は、エメラルダスが宇宙戦士トチローにベタ惚れ状態のように、な〜んか説得力が無い!(爆)

それが「黄金時代編」前の事で、「黄金時代編」の終幕、蝕=カタストロフを完成させると同時に、この物語は、その方向性が大きく違ったものになった…とそう思うのです。
たとえば、再三言って来ましたが「黄金時代編」の蝕では、鷹の団はほぼ全滅しているのに対し、「聖誕祭の章」ではたまごっちさん(仮名)、モズグス様をはじめとした、納得の殉教者を出したのみで、主要な人物は、ほぼ全員が生き残っています。
(…へ?アルビオンの難民?マンガ内で“群衆”と捉えられた人たちの人権は、マンガの全般的表現か、その上の話になりますので、今回は置いておきましょう)
たとえば、キャスカです。「黄金時代編」の終わりで、強姦され、堕胎し、精神に異常をきたす、というかなりキツめの結末を迎えている娘ですが、当初、ガッツの絶望の象徴としてあったと思うのです。しかし、「聖誕祭の章」のはじめで、ガッツの“唯一の希望”という視点に変わっている。…とも言えますが、正直言うと、ここらへん解釈は難しくて混沌としています。しかし、おそらくキャスカというカードはその状況状況で絶望にも希望にも映り、二転三転します。

…が、そこはまあそれとして僕の絶望としての解釈を続けると、「すげえぞ!さずが超越者!ほんとに死なねえぜ!!」…とか言っちゃう人は、死んだらそれまでで天国も地獄もない!という世界観に生きているはずなので、なまじ生き残られてしまう方がよっぽど地獄だ!となると思うのです。だから、ガッツはキャスカを置いて復讐の旅に出ることにさほど躊躇がなかったのですが、今は、キャスカなしには生きていけないかのようです。
何故か?これはそのまま描かれていますね。彼女がガッツにとって唯一の希望であったと気がつかなかったと。最初、何処にいようと逃れようのない絶望としての存在していた彼女が、実は命があって絶対に守らなくてはならない希望だったと気づいた、と。誰が?作者が(笑)
まあ、そのため、ガッツが復讐の旅から帰ったら、いつのまにかキャスカが正気に戻ってた…という結末にし辛い展開になってますね。

そういった、世界の構造自体は変わらないのに、それを描く視点が“蝕”を境に一転している。「黄金時代編」を長い年月をかけ、蝕のカタスストロフ自体も数百ページにわたってネッチリ描いた結果、何と言うか、それまで作品の中で渦巻いていたドロドロとしたマグマのような“毒”が漂白されたんだなあ…。というのが僕のベルセルク論です。
普通、“毒”をウリにしていた作品が毒を失ってしまうのは、ほとんどいい結果をもたらさないものだけど、…端的に言うとつまらなくなるものだけど『ベルセルク』はかえって、その世界さえも冷静に捉える目ができたというか、一段も二段も深みが出てきたと思っています。その証拠にルカやニーナ(そしてモズグス様の)生き生きとした事!それまで登場する優しい人たちって、どこか型にはまったというか、おざなりだった。この身を悪にそめても歯を食いしばって生きている人間じゃなきゃ生きる価値さえ与えてないような描き方だったこの世界は確実に変わったと思います。濁だけだった(あるいはその方が圧倒的な比重を占めた)『ベルセルク』の世界は、清濁併せ呑んだ世界になったと思います。

もともと「黄金時代編」を描き切るパワー自体が尋常じゃないのでしょうね。ガッツの怒りの根拠に、親友に裏切られた事からさらに“自分が今まで積み上げた現実世界が突然何の意味も無く崩壊した”という事を上乗せするため、本来読者にとって現実世界とはかけ離れているガッツの現実世界を共感たらしめた上でその世界を崩壊たらしめるというやり方を選び、グリフィスとガッツの関係の積み上げにごまかしを無くすために敢えて物語を省略せずページを積み上げるというやり方は、直球過ぎて、朴訥過ぎて、スマートさからはかけ離れていますが。やった事は。全部。無駄になっていない。
最初から優しいキャラが描けていたら、こうなったかどうか分からない。この世界はどちらにも振り切る事ができる。この作者は生と死のどちらのカードも切り札として持っている(普通、生きている事を切り札にできる作家はそうはいない)。だから誰かが死んでしまったらすごいショックだし、誰かが生きていたらすごい嬉しい。
いいいマンガになっていると思います。素晴らしい結末を期待しています。

(おまけ)
LD「…結局、モズグス様ってどうしてああなったの?何か今一つよくわかってないんだけど(←たまごっちさんの仕業だという事がよく分かってなかった)」
GiGi「グリフィス転生の余波が来てたんでしょ」
LD「…そうなんだ。本当に、ただ、それだけなんだ」
GiGi「でも、モズグスにとっては神の奇跡以外の何物でもなかったろうね」
LD「……ああ、そうだね。それも本当にそうだね」

モズグス様にとってゴットハンドやその使徒たちは“神”と呼べるものではないかもしれない。でも、彼の身の上に起きた出来事は、何であれ間違い無く神の奇跡だったんだと…ううう、感動的だなあ。僕はちょっと涙ぐんで空を見上げるのでした。

モズグス様フォーエヴァー!!(おしまい)

2002/01/22
整形 2011/11/12

  1. モズグス様フォーエヴァー 序文
  2. モズグス様フォーエヴァー モズグス様言行録
  3. モズグス様フォーエヴァー ルカとジェローム
  4. モズグス様フォーエヴァー ニーナの冒険
  5. モズグス様フォーエヴァー そして、作品論へ

モズグス様フォーエヴァー ニーナの冒険

さて、いよいよニーナさんの話です。難民街で娼婦をやり、性病に冒された可哀想な娘。個人的に「生誕祭の章」は実はこの娘の物語がかなり主格に近いと思っています。ひたすら死を恐れ、怯える以外、何の主体も持ち得ないキャラのため、結局、これといった劇的展開も、核心へのアプローチもできなかった娘ですが、それ故に、目線を向け描こうとしなければ、描く必要のないキャラなのです。しかし、それでも描いている。
まず、情けなさの目立つ大冒険ぶりを下に羅列してみます。

  • 新興宗教にハマり、話について来れなかった恋人のヨアヒムを崖から突き落とす。
  • それをルカに見られて「ホントはあんたが気に入らなかった!」と自分の心象を暴露するが、尻を叩かれて、泣きながら屈辱のポジションに戻る。
  • キャスカを匿ったままだと、いつか自分も捕まると考え「捨ててこよう」とルカ姉さんに意見して、後で自分の卑小さを思い知って泣く。
  • 邪教徒狩りに連れていかれたぺぺをルカが助けに行くが、かえってここへ邪教徒狩りを連れて来るんじゃないかと怯え、その場から逃げ出す。先の反省からキャスカを見捨てて行くのはよそうと思い、彼女も連れて行く。
  • しかし、それが裏目に出て、邪教徒たちに捕まり、“魔女”を独り占めにしようとした疑いで生贄にされそうになる。
  • イシドロに助けられたところでヨアヒムと再会、殺されかかったヨアヒムは即座に邪教徒狩りを呼び、今度はアルビオンの拷問所に連れていかれる。
  • キャスカが拷問に連れて行かれるのを黙って見ていて、「自分の事しか考えないそういう卑劣な奴、おれ許せない」とヤットコさん(仮名)に言われて、拷問に連れて行かれる。
  • 勇気を振り絞って拷問に耐え、少しでもキャスカを守ろうと決意するが、拷問所の惨状を見て瞬時に決意が瓦解。爪一枚剥がす前に全て白状する。
  • さらに助けに来たルカとジェロームが「キャスカがどこに居るか」と聞くと反射的に「知らない」と答えようとする。
  • 塔から落ちそうになるルカの手を取る。極限事態にもかかわらず、ルカと自分の立場の逆転にほくそ笑む。
  • しかし、そのルカ姉さんは、他の者を早く逃がすために手を放される。それまでに自分と全く逆の行動を取られる。

大雑把に述べるとこんな感じですが、細かい場面場面でも、細か〜く情けなく行動してくれています。他に、たまごっちさん(仮名)に、かなりボロクソの批評を受けていたりしています(笑)
それと、これが重要なんですが、彼女はこれだけミスチョイスを犯しているにもかかわらず、かなりの運の良さで再三救われ助かっている。「ベルセルク」でこんなにも加護を受けたキャラは珍しいですよね?
とにかく中途半端な決意がさらに悪い結果を生むという、見事なまでのダメダメ人生!特に何とかルカ姉さんの役に立てた、と喜んだところで、手を放されてしまうシーンはかなり泣けます。「今、わたしがこの手を放したら…」と暗い喜び方をしていますが、あれでようやく立場対等なんだよねぇ。でも、手を放される(笑)ルカ姉さんだって絶対手を放して欲しくないと思っていたのに、彼女は“みんなを助けるために手を放す”(笑)

…と、かなり笑いものにしていますが、僕がこの断罪編の中で一番共感を呼ぶのはニーナに間違いありません。僕も、拷問と言えば爪一枚、指先一本も耐えられない人間なので、心象の部分でも他のキャラに比してかなり重なる部分が多いです。
はっきり言って本来、こういうダメ人間は「ベルセルク」の中では真っ先に“断罪”されてしまうのですが、ニーナはそういう結末を迎えていません。
怪異ドロドロを前に樽の中に放り込まれるという、物理的に助かる行動・努力は、やっぱりルカ姉さんまかせで、自分は“立派におっかながってみせる”という本性そのものをさらけだすだけのニーナなんですが、このニーナの行為は物語において許され、肯定されている。

ラストで、少しでも強く生きる事を決意し、ヨアヒムと一緒にルカ姉さんの元を離れますが、これだけダメダメをやらかして来たニーナの決意は正しいとも、固いとも言えず、三日後には再び、ルカ姉さんに泣きついて来る可能性大という状況には思える(笑)にもかかわらず、その演出を見る限り彼女は(作者に)許され、あるいは“断罪”を終えている。
ベルセルク』ってのは、本来こういうダメダメ人に優しくない作品だったはずです。ダメダメ人?いや、普通に生きている人まで容赦なしの作品でした。ガッツは復讐が最優先の人間で、他人がどうなろうと知ったこっちゃなく、その巻き添えをくって死ぬのは弱いからで、弱い奴が悪い!
…そういう物語のはずだったんですが…どうしたんでしょうねえ。

ここでちょっと、ニーナの系譜を遡ってみましょう。まず「生誕祭の章」の前の「ロスト・チルドレンの章」の主人公(とも言える)ジル。これは何となく分かってもらえると思います。あるいは聖鉄鎖騎士団のファルネーゼさんも、これに入るかもしれません。
何を以って系譜と言っているかというと、元々は“普通に弱い”人たちだったのが、ガッツに(あるいはガッツの世界に)“普通に弱い”のではダメだ!と思い知らされてしまう人たち、といえばいいのでしょうか…?…(汗汗汗)…続けます。
これを、どんどん遡って行きます、すると系譜の原点みたいな人に当たります。この人です!(↓)

え?強引ですか?う〜ん、ちょっと強引かなあ?じゃあ、「欲望の守護天使」の編に登場する伯爵(使徒)の娘・テレジアとか?彼女は、城下では地獄の惨状が展開されているにもかかわらず、ヌクヌクと伯爵の愛情を受けつづけ、優しい娘のままでいた事を“断罪”され、ガッツに対し激しい復讐心を抱くことで、許されている。もっと言えばガッツと同じ人間になる事を強要されている。
それがニーナの頃になると、ほとんど“このままでいい”といってもいいような許され方をしている。少なくとも僕はそういう物語の方向性に変化を感じずにはいられなかったです。
う〜ん、やっぱり変わったと思いますよ?
何が変わったのか?
作者が変わった。
それでは、作品論へ!

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2002/01/02
整形/修正 2011/11/12

  1. モズグス様フォーエヴァー 序文
  2. モズグス様フォーエヴァー モズグス様言行録
  3. モズグス様フォーエヴァー ルカとジェローム
  4. モズグス様フォーエヴァー ニーナの冒険
  5. モズグス様フォーエヴァー そして、作品論へ